J'adore -7ページ目

8 月が見ていた午後1

時々、カオリは自分がわからなくなる。


そして今のこの時間は夢なのかと思う。


カオリの背中は大理石の冷たさを心地よく感じていた。


白い大理石の床に、カオリの白い裸体が横たわっている。


そして長い黒髪が対象的になまめかしい。


ジャスミンの香が漂っている。


さっき沸かしたエスプレッソの香もミックスされて、エキゾチックな空間。


カオリは麻のシャツを身につけたままの一色を抱きしめていた。


麻の荒い感触が、肌を刺激する。


麻の香りは若さと夏のイメージ。


ジャロジーの隙間から、初夏の夕方の空をみつめると、細い月が下のほうに浮かんでいた。


「月が見ているわ。目が会っちゃった。」


カオリが華やかに笑う。


一色は鮮やかなオレンジ色の麻のシャツを脱ぎながら、カオリに口づけをした。


「あなたと僕が愛し合うのを見てもらおうか。


ほんとは誰にも見せたくないけど、月なら許してもいいかな?」


「まだ水色と瑠璃色の混ざったような空に浮かんで、月も困惑しているようね。


今って夕方?それとも午後?」


「太陽と月が仲良くしてるから、午後なんじゃないの?」


「わたしたちみたいに仲良くしてるのね。」


「いいことしてるのさ。」


白い床にはカオリの赤いランジェリーが、花びらが散ったかのように脱ぎ捨てられている。


テーブルにはチーズと赤ワインが用意されている。


イタリアのトスカーナのワインは、一色が持参した。


ジャスミンとエスプレッソとワインの香の中で、二人は解けていく。


7 エスプレッソの冷めるまで2

山本夫人はカオリのすすめた春の新作コレクションを、気前よく3セットも購入した。


普段スポーティーな女性ほど、ランジェリーには気を使っているものなのだ。


人に見えない部分だけに、どんなロマンチックなものでも遠慮なく身につけることができるから。


夫人が購入したものも、フランス製の華奢なレースがあしらわれたものや、


白地に薔薇の模様がプリントされたかわいらしいものだった。


フランス製のランジェリーのすごいところは、そんな華奢なイメージでありながら


女性の体を、より女らしくセクシーに見せる所だ。


身につけていることで、気分もエレガントになり、セクシーでもいられる。


「わたし脱いだらすごいんです。」


というようなフレーズのコマーシャルを、ふとカオリは思い出した。


カオリは赤のシフォンのドレスの下に、やはり赤いガーターベルトと赤のランジェリーを身につけている。


誰に見せるでもなく、自分の心構えが大切なのだと思っている。


キッチンのジャロジーの窓をすかすと、庭に植えたジャスミンの香りが入ってきた。


カオリはカップを洗う手を止めて、目を閉じる。


ジャスミンの香りは、彼女の何かを刺激する。


ふと、一色の手が自分の背中を撫でてヒップラインをたどった今朝のひとときを思い出す。


「会いたい。」


あんなに愛し合ったのに、また一色に会いたくなっている。

6 蒼い影2

高見の横顔は、繊細で人を寄せ付けない印象がある。


今夜はシトエの30センチ横で、ロックグラスを片手に珍しくうなだれている。


まだ少し青年の面影を残す、きれいなあごの線をしているのに気がつく。


「どうしたの?今夜の君は高見らしくないぞ。」


シトエは無理に姉御を気取った。


前髪を煩わしそうにかきあげながら、高見が小さく笑った。


「くだらないんですよ。」


「何が?」


「俺と俺の回り全てです。」


「生まれてこなかったらよかったと思ってる?」


「できれば・・・・」


「それじゃあ、わたしとも会えなかったほうがよかった?」


「それは・・・・・」


「だったら、よかったじゃない。回り逢えてよかった。」


「それ以上は言わないでください。僕は今夜おかしいから、気にしないで。」


高見の俺が僕に変わっていた。


また二人の間に距離ができる。


こんな繰り返しを二人は何年続けているのだろうか。


高見はシトエの自慢の鎖骨を眺めていた。


そうだ、初めて会ったとき、彼女の鎖骨に感動した。


なんて強い意志を持った鎖骨なんだろうと。


それからシトエは危ない恋を繰り返し、今はたぶんフリーな状態。


高見はいつも相談相手、というか聞き役で飲み友達。


本当のシトエの姿を知っているのは自分かもしれないと思う。


「ねえ今夜うちに寄る?」


シトエが珍しく高見を自分の部屋に誘った。


「危ないっすよ。」


「わたしの自慢のオイルサーディン丼、食べたくないの?


今夜はねぎも、お気に入りの醤油もあるし、ベストだわ。缶詰も2つあるし。」


シトエは高見の腕を取って立ち上がった。


あらあら、これは男と女としぐさが逆ね、と反省する。


なぜだか二人でオイルサーディン丼を食べたくなった。


冷蔵庫には『STING』も冷えている。


思いっきり楽しそうに、シトエは高見に笑いかけていた。


またシャツの衿から、きれいな鎖骨が見える。


鎖骨も笑っているかのようだ、と高見はくらくらした。

5  蒼い影

シトエと高見は、シトエの同級生がやっている、わりと洒落たスナックに来ていた。


朝から二人で頑張っていたが、校正が思いの他うまく進まなくて、


というか急な手直しが多すぎたために、結局は11時すぎまでかかってしまった。


6月のジューンブライドのための広告が多かった。


シトエは昔から思っていたが、梅雨の前の春とも夏とも言えない、


こんなあいまいな季節に、なぜみんな結婚しようと思うのだろうか。


自分だったら、寒い冬がいい。


汗だくでドレスを着替えて微笑むなんてできないもの。


というか、結婚式なんて、たぶんしない。


そんな自分が結婚特集の記事をまとめてるんだから笑える。


高見だってそうだ。


実は今の奥さんは2回目の結婚で、噂ではそれも危ない状態とか。


こんな二人でhappyな記事なんてできるのだろうか?


それが、なかなか、今回の特集もクールでいて情熱的、なんて相反する表現でほめられた。


「ねぇ、高見君。なんか歌ってよ。せっかくカラオケあるんだもの。」


高見はスコッチをロックで飲んでいる。


サラリとした髪が、目の上にかかり、シトエより年下のはかない感じが一瞬見える。


「またですか。イジメですよ~。」


と言いながら、高見はマイクを手に取った。


シトエが少し酔うと、必ず歌を要求するのはいつものことだった。


高見は『We've Only Just Begun 』を歌っていた。



We've only just begun
To live
White lace and promises
A kiss for luck and we're on our way
We've only begun

Before the rising sun we fly
So many roads to choose
We start out walking and learn to run
And yes! We've only just begun

Sharin' horizons that are new t us
  Watchin' the signs along the way
  Talkin' it over just the two of us
  Workin' together day to day
  Together

And when the evenin' comes
  We smile
  So much of life a day
  We'll find a place where there's room to grow
  And yes! We've only just begun

☆Repeat
  Together

*Repeat



私たちは生きることを始めたばかり
白いレースと誓いの言葉
幸運の口づけを交わし二人は旅立つ
二人の人生は始まったばかり

朝日を前に私たちは飛び立つ
数ある道を選びながら歩いて
走ることも覚えていきましょう
そう、二人の人生は始まったばかり

☆二人の新しい地平線を分かち合い
  道の標識に気を配り
  二人だけで語り合いながら
  1日1日を いっしょに進んでいきましょう

*そして夕闇が迫れば
  二人は微笑みあうの
  先は長いわ
  成長しているところを見つけていきましょう
  そう、二人は今始まったばかり

カーペンターズの名曲の一つで、アメリカの結婚式の定番ソングだ。


そんな歌を歌いながら、高見はなぜか悲しそうに見える。


シトエは翼に傷を負って、飛べないカモメを見ているような気がした。


それとも飲み口が欠けてしまったバカラのグラス。


そして、なぜか、シトエは泣いていた。


自分でもわからないくらいに自然に涙していた。




4 エスプレッソの冷めるまで

カオリが店に着くと、常連客の山本夫人が、店に飾ってあるランジェリーを品定めしているところだった。


山本は店ができた当初からの常連客で、カオリの友人の母親でもある。


168センチはある長身で、ダイナミックな印象の彼女だが、実は下着にもこだわっていて、


自分を美しく見せることには努力を惜しまない。


ゴルフ焼けの小麦色の肌に白い歯が、元々パワフルな彼女の印象をより強めている。


バイトの女の子は、カオリが帰ってくるのを見て、安堵の色をした目で微笑んだ。


振り返った山本夫人も、うれしそうな表情を隠せない。


「よかったわ、カオリさんに会いたかったの。ついでに春の新作も見たかったのよ。」


「いつもありがとうございます。今すぐにコーヒーを入れますからお待ちください。」


カオリはエスプレッソを入れるために、店の奥のキッチンに向かう。


といっても、この店はカオリの住居の一部を改造してあるので、そこは彼女のキッチンでもある。


コーヒーをおいしく入れるコツは、豆の新鮮さとか技術よりも、入れる人の心の余裕だ。


ゆっくりと愛情を込めて入れなくては、美味しくならない。


カオリは山本のために、彼女とこれから過ごす時間を楽しく過ごすために


心を込めてエスプレッソを、白いウェッジウッドのカップに注いだ。


キッチンの床の大理石の冷たさが心地よい。


そう、いつか一色と、この床で愛し合ってもいいかも。


白い大理石の上で横たわるのならば、ツェルマットの珊瑚色したセットアップのランジェリーが似合いそうだ。


わざと金色のミュールをはいて、このキッチンでスパゲッティでもご馳走しよう。


そうね、やっぱりカルボナーラかしら?


冷蔵庫にゴルゴンゾーラのかたまりがあったはず。


店内に向かうたった30秒ほどの間に、一色と会う次のプロットはできていた。


「カオリさん。今夜はなんだか、いつもより艶っぽいわ。」


「疲れているだけじゃないですか?」


「まだまだ、そんな年ではないでしょう?恋をしているのかしら?」


「恋はいつでもしていますわ。」


「女ですものね。」


二人はそう言って笑った。


恋をしてないと、美しくいられない。


カオリはそう信じている。


そして、恋は常に同時進行で複数でないとつまらない。




3 アユミの場合

大きく開いた窓から、月の光と共に事務所の庭に植えてあるシトロンの香りが進入してくる。


アユミはデスクから立ち上がり、窓のほうに歩いていく。


まるで、虎屋のようかんのように深い黒色をした穏やかな海を銀色の月が照らしていた。


明日の施主との打ち合わせのためのサンプルを集めたら、今夜の仕事は終わりにしよう。


アユミはインテリアコーディネーターをしている。


今の事務所に入って7年目。


ここのボス今井のデザインに惹かれて、頼み込んで研究生のような形で入所した。


今では事務所のスタッフとして、いくつかの現場を担当している。


もうすぐ、陶芸家の自分の作品を展示して販売するショップの現場工事が始まろうとしていた。


登り窯で伝統的な作風を大切にしている、その陶芸家の美しい瞳の輝きをアユミは思い出していた。


彼女の生み出す人形には、特にファンが多く、それはまるで命があるように語りかけるような


瞳をした童女たちで、アユミのオフィスの打ち合わせコーナーにも飾られている。


明日はショップになるマンションの1階にある、元はカフェだった場所の解体工事だった。


10坪ほどの小さなスペースだが、ちょうどマンションの角になるのでショーウィンドウを2箇所に取れて


また、観光スポットの通りに面していることからも、なかなかの収益も見込まれた。


外壁は白い漆喰で、ショーウィンドウの周りには、作家の登り窯で使われている陶板を飾りに使おうと思っている。


室内で使うディスプレイにはステンレスの厚い板にわざとサンダーで傷をつけたものを


アールに曲げたものをバックに使う。


天井には直径5センチくらいの黒い竹で、白と黒の対比を柔らかく演出する。


「今夜、会えるかな?シマアジの御刺身でも食べながら飲まない?」


10時を過ぎた頃、徳永から携帯にメールが入った。


彼の店も、そろそろ客が帰り、自分の時間を持てるのだろう。


明日は現場に10時頃に入ればいいだろう。


「今夜の気分は純米の吟醸酒ね。どこにする?」


そうメールしながら、アユミはジャズ好きのマスターが営む居酒屋を思っていた。


そこのアナゴの白焼きも食べたい。


わさびと醤油で、その香を楽しみながら冷酒をいただく。


「じゃあ、いつもの涼香で。」


徳永も同じことを思っていたようだった。


事務所の電気を全て消して、彼女はルノーサンクのエンジンをかけた。


一度家に戻ってから、タクシーで涼香へと行くつもりだ。


ルノーの窓を全開にして、海辺沿いの道を走る。


今、会いたいのはアナゴではなくて徳永なのだということをアユミは知っていた。





2  カオリの場合

太陽が高く輝いていた。


本番の夏よりも、6月の太陽のほうが若さをもてあます青年のように、彼女の肌に照りつける。


「カレーでも食べようか?」


海辺の道を西に向かって走りながら、一色が言った。


カオリは40代の初めだが、小柄で色白なせいか30代初めにしか見えない。


今日も真っ赤なシフォンのワンピースをイヤミなく着こなしている。


素足にヒールの細い赤いミュールで、きれいで艶やかなすねをあらわにして脚を組んでいる。


運転している一色は、最近一番カオリと行動を共にしているボーイフレンドの一人。


昨日の夕方から、今日の午後まで一緒に過ごしていた。


一色の所有する、夏の海に沈む前のようなオレンジ色をしたシトロエンエグザンティアの右の席は


ここんとこカオリの定番のシートになっている。


初めはちょっと違和感を感じたフランス車特有のわがままなエンジン音も、


最近は自分に似ているようにも思えてかわいく感じている。


ただ、雨の日のドライブは少しカンベンしてほしいときもあるけれど。


「カレー、いいね。グリーンカレーがいいわ。」


「じゃあ、タイ風のあのカレーが食べれる店に行こうか?」


「賛成。そして、わたしは999(バーバーバー)のビールを飲むわ。」


「ワインは要らないの?」


カオリは何よりもワインを好む。


昼間でも仕事の予定がなければ、ご飯よりもワインを1本、それもミディアムの赤=rosso。


白い肌が、透明にルビー色に染まると、カシス系の甘い香が彼女の体から薫る。


そんな薫りに包まれながら、昨夜も、そして今朝の光の中で二人はじゃれあった。


「唯一、カレーにはビールが似合うの。それもタイのビールね。サンミゲルなんかもいけるわ。」


「サンミゲルか。なんか懐かしいな。スペイン料理を食べるときは、サンミゲルがいいね。」


「スペイン料理もいいわね。今夜、タパスをつまんだ後で二人でフラメンコでも踊る?」


「ベッドの上で?」


「玄関でもいいわよ。このドレスならいけそうでしょ?」


「確かに。でも、僕はギターもできないし、カンテもできないよ。」


「わかってる。わたしだって踊れないわよ。」


カオリの手が一色の膝の上で丸いカーブを描く。


「汗かきたいね。」


「グリーンカレーで充分に汗が出るわよ。」


「わかってるくせに。」


そのとき、カオリの赤い携帯が鳴った。


シンプルなコール音。


「お店からだわ。」


一色は車を停めた。


「ごめんなさい。カレーはお預けだわ。大切なお客様がお見えになるの。


わたしでなければいけないって方だから帰らなくてはいけない。女の子に任せておけないの。」


電話が終わった後、カオリは残念そうに伝えた。


「カレーとダンスはお預けだね。」


カオリはフランス製のランジェリーを主に扱うショップを経営していた。


そのせいか、人体のサイズを見事に当てる。


そして、彼女の見立てで選んだランジェリーを身につけることで体のラインさえ、きれいに見えるのだった。


「昨夜も今朝も素敵な時間だったわ。ありがとう。」


今度会えるのはいつかしら?


カオリは約束はしない。


偶然という神様のイタズラが大好きだから。





1 シトエの場合

シトエ、30代後半。


仕事は記者でありデザイナーであり、ときとして営業マン。


つまり、小さな出版会社で何でもこなしている自称「オヤジウーマン」。


今日も朝からデスクでパソコンとにらみ合い=格闘していた。


体によくフィットした、ちょっとエリの高いめの白いシャツとシンプルな黒いタイトミニ。


靴はお気に入りのカニスファミリアのバックベルトタイプ。


ヒールが7センチと言うのは外せない。


彼女がご自慢の鎖骨をチラッと見せながら微笑めば、たいがいの営業はうまく運ぶ。


「今日も朝ごはん、食べてないのよ。おいしいコーヒー入れてくれる?高見君。」


「いいですよ。それでシトエさんのご機嫌がいいのなら、何杯でもコーヒーくらい入れますよ。」


「悪いわね。でも、君のコーヒーはそこらへんの店よりおいしいから。」


高見はシトエの少し後輩で、主にデザインとコピーライターをこなす。


大きい賞も取ったことがある彼だが、なぜだか世渡りは下手で、今はこの小さな会社のデザイナーとして働いていた。


魚の食べ方がとてもきれいで、食事に行くとシトエの分まで、きれいに身をとってくれる。


彼の作るイカスミスパゲッティも絶品だ。


そしてパーコレーターで入れる濃い目のコーヒーもシトエ好み。


朝の早い事務所には、まだ高見とシトエの二人っきりしか出勤していなかった。


二人とも仕事を愛している。


そして、お互いを仕事のパートナーとして気持ちよく感じている。


高見はすでに結婚していたから、シトエにとっては恋愛対象外。


そんなところが二人がうまくいっている理由なのかもしれない。


「シトエさん。今日も暑くなりそうですよ。」


いい香りのコーヒーの入った白いカップを渡しながら、高見が窓にさしてきた力強い太陽の光をみつめて言った。


「そうね。もう夏ね。」


明日は久々のオフだ。


友人たちと海の見えるカフェでブランチを楽しむことになっていた。


カオリの恋の話でも聞かされるのだろうか?


恋多き女、「カオリ」。


柔らかい表情のカオリの情熱的な恋の話は、いつも彼女たちをドキドキさせるのだった。

loveLetter1・・・・過去へ

sora1

ある年の今頃、彼女は恋を始めていた。


空に走る1本の線を見て、そんなことを思い出していた。


そう、恋は突然始まり、突然終わる。


happyになんて終わらせてくれることは少ない。


幸せは一瞬で、勘違いとすれ違いで不安になるのが恋かもしれない。


神様は残酷だ。


頑張っている人にごほうびをくれるとは限らない。


宝物は拾ったものが勝ちだなんて、切なすぎる。


イジワルはいいかげんにして、と何度も、あの頃つぶやいた。


思いがけない偶然が恋を作り、壊して、また新しく作られる。


彼女のそのときの恋は未完成だから、ほんとは完成させたいのだ。


storyはまだ続いている。


誰かがペンを置かなければ、endにはならない。


彼女の心の中でインクが滲んでいる。


小さな恋のかけらが、彼女の胸の柔らかいところをチクリと刺した。


過去に好きだなんてつぶやいても、誰も受け取ってはくれないのはわかっていた。

雨のにおいのする街22

千代田線に乗って赤坂駅まではすぐだった。


ちょっと今夜のこの気持ちよさを、ここで終わらせるのはつまらなく感じる。


彼女と会えるのはうれしいけれど、今夜の一人の時間も大切だ。


渋谷に残っている仲間たちは、たぶん六本木あたりで飲んでいるだろう。


ブルースを聴いた後はバーボンだ、なんて言ってた。


ただ言い訳がほしいだけ。


そして女がいない、男だけの時間を思いっきり楽しむのが彼ら流。


奴らのうちの一人は海洋カメラマンで、一年のほとんどを南の海で過ごす。


そいつの奥さんは彼のマネージャーをしているが、飛び切りのいい女。


40を過ぎても上腕にたるみなんてなくて、足首の美しさといったら生唾もんだ。


切れ長の美しい黒い瞳とタイミングのいい会話は、彼女をより魅力的に感じさせる。


彼はその友人が海外に行っているときに、出張することがあると


子どものいない彼の家に、その奥さんと二人っきりになるけれど泊めてもらったりする。


そして、彼女と六本木のライブハウスにジャズを聞きに行くこともある。


そういえば、サテンドールで気持ちいい時間を過ごしたのも、その彼女とだった。


どんなに好きなタイプでも、機会があっても、二人にはオトコと女の関係はありえない。


TBSの前を抜けて、赤坂プリンスホテルまで歩く。


夜になると、ホテルの前にセッティングされたイルミネーションが輝いて


旧舘と新館とのコントラストが近代的で美しい。


今度、東京に来るときは泊まってみてもいいかもしれない。


全室コーナーの新館からは都会の夜景が楽しめるはずだ。


せっかくの夜だ。


ニューオータニまで歩いてみよう。


トレーダーヴィックスでスコッチでも飲んでから眠りにつくか。


バーカプリで、もう少しピアノのライブでも楽しむか。


彼は煙草を切らしていることに気がついた。


たまにはシガーもいいかもしれない。


リネンのジャケットには、なんとなくシガーが似合う。


二人でいるのもいいが、こうやって一人の夜も捨てがたい。