53 今は言えない。
指と指を絡ませて、指の付け根から指先までゆっくりと撫でられると不思議な安心感が満ちてくる。
たぶん、徳永の優しい気持ちが指先から自分の中に入ってくるのだろう。
大切にしてくれる人がいるということは女に余裕を与える。
仕事のときの緊張感から今は解き放たれていた。
「ねえ今、とってもいい表情だよ。
アユミは本当はとても女なんだって感じる。」
「あなたといるときは、いつも女でいたいと思ってるわ。」
「アユミはいい女だ。たぶん誰が見てもそう思うだろうけど、二人っきりのときに見せる柔らかい表情が一番女だね。」
運転中なので、前を向いたまま徳永は微笑んだ。
徳永はアユミと会っているときに、何度でも『好きだ』という言葉を使う。
まるで自分に言い聞かせているかのように、力強く言う。
「アユミはどうして僕のこと好きって言ってくれないの?」
と聞かれたことがあった。
好きだと相手に伝えることで、そんな気持ちが過去になってしまうような気がしてアユミはコワイのだ。
だから自分の心の中で大切に育んでいたい。
柔らかい布で包んで温めていたい。
下り坂になると空と海の境が曖昧にかすんでいるのが見える。
もう少ししたら夕立があるかもしれない。
一時間後には、いつものホテルについた。
荷物を置いてすぐに、友達のやっているライブハウスに出かけた。
ブラックライトに照らされた入り口を通って、ダンスフロアーの壁にしつらえられた椅子代わりのステンレスのバーにもたれかかった。
心地よいレゲェが流れている。
二人は、ライムのスライスを浮かべたラムを飲む。
徳永はグラスを持ってない左手でアユミの腰に手を回して引き寄せた。
「今夜はアユミに好きって言ってほしい。」
わかっているけど、好きという言葉はうまいタイミングで使えない。
今は言えない。
なぜか言えない。